「株主vs社員」を超える鍵:『GROW THE PIE』が示す成長投資の道筋 ~ 人への投資をパイの拡大に繋げる3つの原則 ~

主任研究員 霜山 元
「株主還元の拡大」と「従業員への還元」は、しばしば綱引きのように語られます。しかし本当に、両者はゼロサム(奪い合い)の関係なのでしょうか。2026年2月の日本経済新聞の連載「資本騒乱」では、株主還元と労働分配を単純な対立軸として捉えることへの疑義や、賃上げ・投資・還元が同時に進む企業の増加、さらには「付加価値を誰がどう分けるか」を可視化する試みが紹介されていました。
その流れの中で、私たちが翻訳・出版に携わったアレックス・エドマンズ著『GROW THE PIE』の考え方にも触れられていました。本稿では、記事の問題提起を受け止めつつ、「人への投資」を“良いことだから”で終わらせないための規律として、『GROW THE PIE』が示す視点を整理します。
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1. 「株主vs社員」を超える——“パイを増やす”という本来あるべき道
2026年2月17日の日本経済新聞の記事『「株主vs社員」の対立軸を超えて、パイを増やす新分配論』において、『GROW THE PIE』著者であるアレックス・エドマンズ教授(以下敬称略)が提唱する「パイコノミクス」が紹介されました。
”英ロンドン・ビジネス・スクール教授のアレックス・エドマンズは、利害関係者が限られたパイを奪い合うのではなく、ともに価値を大きくする「パイコノミクス」を提唱した。資金の出し手である株主と従業員の利益は必ずしも二項対立ではない。成長を通じてすべての関係者の取り分を増やすことにこそ持続的な解がある。”
行き過ぎた「投資なき株主還元」に対して、割を食っていると見られがちな「人への投資」の重要性、そしてそうした投資こそが株主の利益にもつながり得るという点を、本記事は示唆しています。
「パイコノミクス」の中心メッセージは明快です。
利害関係者が限られたパイを奪い合うのではなく、価値創造によってパイそのものを大きくする。その結果として、株主にも、従業員にも、顧客にも、社会にも、持続的に報いられる状態を目指す。いわば、分配の議論を、成長と価値創造の議論へと引き上げる提案です。
書籍『GROW THE PIE』では、従業員を大事にする企業が長期的に高い利益を株主にもたらしていることが、データと研究成果に基づいて示されています。
ただし重要なのは、エドマンズが「従業員に投資せよ」と無条件に唱えているわけではない点です。問うべきは、どんな投資が“パイを増やす投資”になり得るのか。その判断のために、彼は明確な原則を提示しています。
2. 成長投資を正当化する「3つの原則」
成長投資を“情緒”でも“流行”でもなく、説明可能な形で評価するための枠組みとなるのが、次の3原則です。
- 増幅の原則:投資がパイを増やすか
- 比較優位の原則:自社が最もうまく実行できるか
- 重要度の原則:価値創造の中核に関わるか
この3原則に沿っている場合にのみ、成長投資は正当化される——エドマンズはそう主張します。ここでは、記事の文脈で特に注目される「従業員への投資」に引き寄せて整理します。
原則①:増幅の原則
その投資は、投資額を上回る価値を生み、パイ全体を大きくするか。
ここでのポイントは、便益が投資対象(従業員本人)だけに閉じないことです。
たとえば、学習機会の提供や制度整備が、
- 離職率の低下・採用競争力の向上
- 生産性や品質の向上
- 新しい価値提案(商品・サービス・業務プロセス)の創出
- 組織の学習速度の向上
につながるなら、その果実は企業の競争力となり、結果として株主還元の原資にも、社会への価値提供にも波及します。「社員のため」か「会社のため」かではなく、“増幅”が起きているかが問われます。
原則②:比較優位の原則
その投資は、他社や他の主体よりも、自社がうまく実行できるか。他の主体がよりうまくできるのであれば、自社がその投資を行うことは、社会全体で生み出せる価値を相対的に減らしてしまうため、「やらない方がよい」という判断になります。
従業員への投資は多くの場合、企業固有の仕事・文化・能力開発の文脈と結びついています。そのため「従業員に働きかけ、その会社の現場で価値創造を起こす」施策は、基本的に当該企業が担うしかなく、比較優位の原則は満たされがちです。一方で、成果の大小は社内の実行力に大きく左右されます。したがって企業は、この力を不断に高め続ける必要がある——ここが重要な含意でしょう(詳細は後述します)。
原則③ :重要度の原則
その投資対象は、自社の価値創造にとって重要か。
あるいは、自社が内発的・根源的に大事にしているものか。
人口減少と人手不足が進む日本の状況、無形資産(知・経験・関係性・創造性)こそが価値創造の源泉になりやすいビジネス環境を踏まえると、「人」は多くの企業で高い重要度を持ち得ます。
実際、「価値創造の源泉は人」「従業員こそが最大の資産」と公言する日本の企業や経営者は少なくありません。加えて、日本企業には企業理念として「働く人の尊厳」や「幸福」を掲げる例も多くあります。その場合、人への投資は“戦略”であると同時に、自分たちは何者で、何のために事業をするのかという根源的な存在意義(パーパス)ともつながってきます。
3. 何が違いを生み出すのか:3原則に則った対話と実行力
以上を踏まえると、日本のビジネス環境において、従業員に対する成長投資は概ね正当化でき、実際にパイの拡大にもつながり得る——そう考えられます。だからこそ、今回の記事のような主張が広がり、「人的資本経営」という言葉が多く扱われるようになっているのだと思います。筆者としても、従業員に対する成長投資がより多くの企業に広がっていけばいいなと願っています。
しかし、大事なのは、どのような投資を行うか、そしてどのような姿勢で行うかです。「人への投資は大事だ」という総論の賛否に終始するのではなく、それぞれの具体策が3原則に照らして正当化できるのかを対話し、社員を含むステークホルダーと共有することが重要ではないでしょうか。
- その施策は、どのようなメカニズムで価値を増幅させるのか
- 自社がやる意味(比較優位)はどこにあるのか
- 自社の価値創造の中核(重要度)とどう結びつくのか
- 実行後に何を見て学び、どう改善するのか(モニタリング)
この「説明→実行→検証→改善」の循環があって初めて、人への投資は“スローガン”ではなく、パイを増やす実践になります。
エドマンズは『GROW THE PIE』に続く論考(例:Rational Sustainability)でも、この点を特に強調しています。
「ESGっぽい施策だから良い」「人的資本経営が大事だと言われているから、関連していそうな施策を実施する」ではなく、その施策が結果(従業員の成長やウェルビーイングの向上、離職率や採用コストの低下、創造性や生産性の向上等)にどう効くかを、きちんと問う。
外的評価や見栄えの最適化を目指すのではなく、企業のビジネスサイクルやマネジメント慣行の中に、どのように具体的に組み込まれているのかをモニタリングする。
こうした、現実に立脚した誠実な姿勢が重要だと思います。加えて、先の比較優位の原則でも触れたように、人への投資の効果を高める企業の実行力(マネジメント慣行、成長支援力、評価制度、対話力、企業文化)を磨く取り組みこそがレバレッジになるのではないでしょうか。
企業内の評価制度やパフォーマンス・マネジメントの専門家であるタムラ・チャンドラー氏は、次のように指摘します。
”多くの企業が「人こそが最大の資産」と口では言いながら、
それだけの重みを人に与えない意思決定をしたり、
人間性に基づかない時代遅れのマネジメントを行っている”
賃金を増やしたり、リスキリングなどの機会を提供したりして人への投資を増やしたとしても、社内の諸制度やマネジメントの習慣の中に、心理的安全を脅かしてフィックスト・マインドセットを助長するような要素が残っていたり、豊かな対話の土壌が育っていなければ、投資効果は得にくくなってしまうでしょう。
経営学者ゲイリー・ハメルが『ヒューマノクラシー』で提唱するように、過去に築き上げられてきたマネジメント慣行は、人を手段として捉え厳格に管理しようとする傾向を多分に含んでいました。多くの企業が人を中心にした経営を志向したとしても、組織内には慣性が働きます。そのため、過去からの道具的な世界観に基づくマネジメント慣行は、至る所に残ってしまいがちです。
そうした現実に向き合い、自社の企業文化やマネジメント慣行、様々な制度が一貫したものとなるよう整え、組織の「人を活かす力」を伸ばし続けることが、大きな違い(パイの拡大)をもたらすのではないかと思います。
4. 最後に:パイを増やす取り組みを支えるのは「内発的な動機」
最後に強調したいのが、こうしたパイ拡大に向けた成長投資は、「単純にそれで儲かるから」「計算するとその方が利益が出そうだから」といった道具的な動機だけで行うのではなく、「自分たちの能力・強みを活かして社会に貢献したい」「より良いことを為したい」という内発的な動機から行うことに、最も重要なポイントがあるという点です。
株主還元であっても、人への投資や事業への投資であっても、「誰か(株主や規制当局)にそう言われたから」「みんながやっているから」「評価されそうだから」ということではなく、内発的動機に基づいた決断によって実行していくことこそが必要です。エドマンズはヒューマンバリューに寄せたビデオメッセージで、こう語りかけました。
”パイコノミクスが目指すのは「本質的な価値」の追求です。
評価のためではなく「それが正しいことだから行う」のです。
「誰にも知られることがないとしても、それでもその行動をとりますか?」
——これが、正しい動機に基づいているかを確認する核心的な問いです。”
対話を通じて自分たちの価値観と存在意義を問い直し、内発的なものに導かれた意思決定として実行していく。その先に生まれるパイの拡大、人的価値と事業価値と社会価値が同時に創造される状態の実現に向けて、引き続き皆さんと歩みを共にしていければ幸いです。