インサイトレポート

コラム:万華鏡としてのキャリア観 〜ビバリー・ケイ氏著書日本語版発刊に寄せて〜

2020/08/29にヒューマンバリュー出版部より、ビバリー・ケイ(Beverly Kaye)氏らによる著書の日本語版として、『会話からはじまるキャリア開発 ― 成長を支援するか、辞めていくのを傍観するか』(原題:Help them grow, or watch them go、訳:佐野シヴァリエ有香)が発刊されました。

私自身にとっても思い入れのある本であり、多くの人にお読みいただくことで、キャリア開発のあり方がより進化していくことを願っています。本コラムでは、発刊に寄せて、著者の背景や考え方についてこれまでの経験を振り返って少し紹介してみたいと思います。(ヒューマンバリュー 主任研究員 川口大輔)

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エンゲージメントの概念を一般的に

ビバリー・ケイ氏は、日本ではあまり知名度は高くないかもしれませんが、海外(特に米国)においては、多くの企業・組織の人事・人材開発に大きな影響を与えてこられた権威の一人として知られています。人材開発に関する世界最大の国際会議ATD ICE(International Conference & Exposition)では、毎年レジェンド・スピーカーとして講演を行い、多くの人々に影響を与えるなどの功績が讃えられて、ATD Lifetime Achievement Awardsを受賞しています。

たとえば、彼女の代表的な著作に『Love’em or Lose’em』(邦題『部下を愛しますか?それとも失いますか?』)があります。

この書籍は、「タレント・ウォー」と呼ばれる人材獲得競争がピークを迎えていた約20年前に出版されました。書籍の中では、マネジャーがメンバーを愛し、メンバーが情熱をもち、組織の中に成長できる環境を築いていくことこそが、人々をつなぎとめる要因となることを、豊富なリサーチや事例をもとに紹介しています。こうした内容は、今でこそ企業にとって当たり前になった「エンゲージメント」の概念に、大きな影響を与えたことがうかがえます。

特に、企業が慣例として行っていた「エグジット・インタビュー(退職時インタビュー)」のアプローチから脱却し、「ステイ・インタビュー」へ転換すべきだという提言は、当時の自分自身にとって目からうろこが落ちるような新鮮な気づきがありました。

人が辞める理由ではなく、なぜ優れたタレントが自分たちの企業に残っているのか、その要因やポジティブ・コアを問いかけ、共に考え、共に築いていくことで、エンゲージメントを高めていく「ステイ・インタビュー」の発想に、当時日本でも注目され始めていたポジティブ心理学や社会構成主義の考え方が重なり、組織開発の本質を垣間見たような気がしたのを覚えています。

その後ケイ氏は、人々のキャリアや成長が、エンゲージメントを築く大きな要因となることに着目し、同テーマの研究や実践を行ってきました。今回の書籍は、マネジャーとメンバーの間に介在する「会話」に着目し、そこからキャリア形成のあり方を再構築することを試みたものということもできるかと思います。

世界観の転換〜はしごからボルダリングへ〜

私自身、この20年の間に何度もビバリー・ケイ氏のセッションや講演を聴く機会に恵まれました。

なぜ自分自身、彼女の考え方に惹かれるところがあるのか、あらためて考えてみると、彼女の語る「メタファー」に、私たちが働く上で育んでいきたい本質的な世界観が、非常にシンプルに顕れているからではないかなと感じています。

今回出版した『会話からはじまるキャリア開発』では、キャリアについてのメタファーが描かれています。

これまでキャリアは、はしごのように、一段ずつ上に計画的に上がっていくものとして捉えられていたかもしれません。しかし、同書では、VCUAな環境におけるキャリアのメタファーは、むしろボルダリングやフリー・クライミングに近いものであると捉えています。

そこでは、上に登るだけが道ではなく、横に移動してみたり、その場にとどまってみたり、時には意味をもってキャリアを下ってみたり、外に出てみたりしながら、柔軟に道を変えながらも、意思をもって壁を登り、未来を切り拓いていく姿が描かれています。

そのためには、さまざまな異なる機会に挑戦してみたり、踏み込む前に足場が十分確保されているかをテストしてみたり、時にはゴールから離れて大局的に眺めてみるといった姿勢が大切とされています。そして、メンバー、マネジャー、組織(人事)が双方向で関わりながら、キャリアを共創できる環境をつくっていくことの重要性が語られています。

ヒューマンバリューにおいても昨今、企業の人事制度やキャリア制度の変革をお手伝いする中で、はしごに無理やりはめるような等級制度から脱却し、より多様な働き方やキャリア形成に取り組めるような柔軟性の高い制度や仕組みを、ステークホルダーと協力し合いながら、いかに構築していけるかといったテーマに向き合うことが増えていると感じます。

ボルダリングのメタファーは、そうした取り組みに対して、目指したい視座や視点を与えてくれます。

望遠鏡から万華鏡へ

そして、ケイ氏はこの書籍を出版した後、最近では、キャリア観の転換に関する新たなメタファーとして、「望遠鏡から万華鏡へ」というコンセプトを打ち出しています。

キャリアのメタファーとしての望遠鏡は、先を予測するイメージです。そこで問われる質問は、「5年後、あなたはどこにいると思いますか?」「あなたのキャリア・ゴールは何ですか?」「成長したらどうなりたいですか?」といったものです。しかし、実際のところ、こうした質問に人々はうんざりしていると、ケイ氏は述べます。

新しいメタファーは万華鏡であり、これは、経験、選択、機会、可能性などがちりばめられた世界を人が歩むにつれ、あたかも万華鏡のように世界が変容していくというキャリア観を表しているものと思われます。

多様な経験が新しいパターンを生み出していき、そうしたパターンそのものがキャリアとなるというプランド・ハプンスタンス的な解釈に、私もとても共感するところがありました。

今回の出版にあたって、ビバリー・ケイ氏とオンラインでインタビューを行うことができたので、「なぜメタファーをボルダリングから、万華鏡に変えたのか」を本人に伺ってみました。

ケイ氏によると、「ボルダリングも万華鏡も、基本的には同じ考え方に基づいているのだけれども、万華鏡は大きな動きをしなくても、軽く筒を動かし、少し視点を変えるだけで世界が異なって見えてくる」、そうした視点を伝えたかったということでした。

異動したり、昇格したり、転職することだけが必ずしもキャリアではない。その場にいて、視点を変えるだけで見える世界が変わる。気づきが生まれる。そして、どんな一歩を踏み出すかは自分で選択できる。そこで小さな勇気をもって一歩を踏み出すことで、さらに違う世界が見えてくる……。

そうしたキャリアの本質が、この万華鏡のメタファーには込められているように思います。

恐らく多くの方に共通すると思いますが、自身のこれまでの経験を振り返ってみても、決して予定調和的にこれまでの道のりを歩んできたわけではなく、その時々のチャレンジ、好奇心、挫折、葛藤、そしていくつもの偶然の出会いといったさまざまな糸が織り重り、結びついて、今の自分がいるということを思い出させてくれます。新型コロナウィルスの影響で、先行きがさらに見通しづらくなった現在においても、人生が万華鏡のようだと考えると、少し気持ちが晴れやかになり、異なる角度から世界を眺めてみたくならないでしょうか。

学び、成長する心をもち続けながら

時計の針を少し戻すと、初めてケイ氏に間近でお目にかかったのは15年前。2005年に米国オーランドで開催されたATD国際カンファレンスでした。当時、ヒューマンバリューの若手メンバー3名で、エンゲージメントをテーマにATDで初めて発表する機会をいただいたのですが、緊張で固まりがちな私たちのちょうど前の時間帯でセッションを行っていたのが、ビバリー・ケイ氏と仲間の方々でした。

ケイ氏らのセッションが終わり、私たちがプレゼンの準備を行っていたその横で、自分たちのセッションのアンケートを回収し、それを熱心に読み込みながら、仲間の方々と一緒に、自分たちの講演はどうだったのか、もっと貢献できるところはなかったのかを真剣に話し合っていた姿が目に焼き付いています。

レジェンドと呼ばれるような方が、1つひとつのセッションにここまで想いを込めているその姿が、ATD初登壇で緊張しっぱなしの私たちを勇気づけてくれました。

上述のインタビューの中で、ケイ氏は自分にとってキャリア開発とは、「Life Development」であり、私たちは生涯を通して成長していくものであると語っていましたが、その様子が15年前の姿と重なり、不思議な感覚を受けました。こうした学ぶ心、成長しようとする心をいつまでももち続けることが、万華鏡を回し続けるエネルギーとなり、私たちの未来を豊かに拓いていくように感じています。

『会話からはじまるキャリア開発』は、単に考え方だけを述べた本ではなく、日々の実践や習慣につながり、私たちの每日を豊かにしてくれる書籍であると思います。今回の出版をきっかけに、日本において硬直的に捉えられがちなキャリア開発が、より柔軟で、意義あるものとして進化していくことを願っています。そして、人と組織の成長を支えることを使命とした私たち自身も、自分たちの役割が何であるかをあらためて問い直していきたいと思います。

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