ATD(The Association for Talent Development)
AIとヒューマニティ、その間で見つめたもの
<ATD25レポートChapter1>
株式会社ヒューマンバリュー 取締役主任研究員 川口大輔
5月に開催されたATD25。政治的な緊張と社会的不安が渦巻くアメリカの首都、ワシントンD.C.に世界中のL&D実務家たちが集った4日間。私たちは今年もまた、人の成長と学習を通じた探求の旅路に身を置きました。
振り返ってみると、昨年のテーマ「Recharge Your Soul」は、バーンアウトや孤立を背景に、私たちが自分自身とつながり直すプロセスとして語られていました。今年のテーマ「Collective Insights. Lifelong Learning.」は、その流れを受けながらも、AIと共にある時代に、人はどう学び、どう在るべきかという、新たな問いと向き合わせてくれたように思います。
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<AIは“ツール”ではなく、“共に学び、力を与え合う存在”へ>
今年のATDにおいて、最も多く語られていたのは何といってもAIだったと思います。発表では50を超えるセッションがAI絡みであったと聞きます。
昨年のカンファレンスでも大きな広がりを感じましたが、今年はさらにフェーズが変わったことを強く実感しました。
会場の至る所で飛び交っていた “AI-Powered” という言葉は、AIがL&Dの世界に本格的に入り込み、実装フェーズにあること、そして人の成長や変容に“力を与える(empower)”存在として捉え直されていることを象徴していました。
AIは、単なる効率化の道具ではなくなりつつあります。学習のスピード・質・関係性そのものを再構成し、人間の可能性を引き出す共創のパートナーとしての存在感が強まっていると言えるでしょう。
たとえば、「The AI-Powered Leader as Coach: New Frontiers in Leader Development」は、デジタルコーチングの分野で世界的に知られるBetterUp社とマネジメント教育に特化した米国の教育機関IMS(The Institute for Management Studies)による共同セッションでしたが、両者が共通して、「AIと人間のコーチが協働することで、気づきで終わらず、行動と変容につながる学びが生まれる」ということを語っていました。
実際、ユーザーの過半数(51%)が「人とAIの両方からコーチングを受けたい」と回答しており、今や“両者の融合”が支持される時代に入っているといったデータを示しながら、「行動科学 × AI技術 × 人の専門性」を編み込んでいくようなモデル(Braidsモデル)が紹介されていたことは興味深いと言えます。
事例では、AIコーチを組み込んだ学習サイクルが、受講後の実践・定着までを支援し、行動変容率を大幅に高めたという成果が示されたり、ポジティブ心理学の第一人者マーティン・セリグマン氏の知見を学習したAIコーチングのデモも披露されました。全体を通じてAIが人の成長を補助する存在から、拡張する存在へと進化していく可能性を実感できる時間でした。
また、「AI Powered Learning Journeys. Transforming HRD for the Future」のセッションでは、AIチューターを活用した実践例が披露され、社員一人ひとりに最適化された学習体験を提供することによって、学習成果・完了率・満足度がいずれも大きく向上したというデータも共有されました。生成AIを使って、オンボーディングプログラムを数分で設計するデモンストレーションも実施され、業務プロセスへの統合も現実味を帯びています。
さらに「Leading Across Culture, Generation, and Personality with AI」のセッションでは、AIを活用した異文化・異世代・異なる性格特性をつなぐコミュニケーション支援の事例が紹介されました。リアルタイム翻訳や性格傾向に応じた表現の最適化など、多様性の壁を越えて「伝え合う」力を高めるAIツールの実装は、グローバル人材育成における新たな可能性を示しています。
こうしたAIの活用が進む中で、「Navigating the Frontier: Learning & Unlearning in the AI Era」のセッションでは、AIとともに働くために求められる人の思考のあり方を取り上げていました。必要なのは、単なるスキルの追加ではなく、“アンラーニング”——自らが身につけてきた思考や判断の枠組みを一度問い直し、柔らかく手放していくことです。そこで紹介された「柔らかい専門性(Flexpertise)」という概念は、変化の激しい世界において、しなやかに知を再構築していく力の在り方を示していたように思います。
これらのセッションを通じて浮かび上がってきたのは、私たち自身のAIとの向き合い方もまた、変容を求められているということです。 AIに何ができるかだけでなく、私たちがどのようにそれと関係を築くのか——その姿勢の転換こそが、これからの“AI-Powered Learning”を真に意味あるものにしていく鍵なのかもしれません。
<AIの時代に、人はどうあるべきか?>
そうした背景もあり、今年のカンファレンスでは、「AIの時代に、人はどうあるべきか」といったことがこれまで以上に多くの場面で語られていました。このテーマを冠したセッションも複数垣間見られましたし、AI時代に求められるスキルや人材像を定義し、紹介するセッションもありました。
そうした議論が必要であることは間違いありません。けれど、どこかに小さくない違和感も残りました。
その違和感の背景には、”AI-Powered”という言葉のもとに、AIが人をエンパワーする存在として語られる一方で、バーンアウトやメンタルヘルスといったことが依然として大きな課題として取り上げられており、その両者が決して交わることなく語られていることへの矛盾が感じられたことにあったように思います。
並列した現実のあいだに、目には見えない“歪み”のようなものが存在している、そんな印象も残るカンファレンスでもありました。
これまでのATDでも、テクノロジーとヒューマニティの統合やヒューマンセンタードなAIのあり方といったことはたびたび語られてきましたし、参加者と話していてもそこへの関心は高いと思われます。しかし、その実現はそんな簡単なことではないですし、少なくとも今回のカンファレンスでその答えを見出せたとは言えません。
その理由のひとつは、AIが切り拓く未来において、私たち人間はどのような世界を生きていくのか、というビジョンが、まだ語りきれていないということにあるかもしれません。
また、テクノロジーとヒューマニティという異なる原理をつなぎ直すための“軸となる哲学”が、いまだ見出されていないという点にもあるように思います。 これからの時代には、AIをどう活用するかだけでなく、「AIとの共存のなかで、人はどう在りたいのか」という問いに、ビジョンと哲学の両輪で向き合っていくことが欠かせない。そんな思いを、今年のATDでは強く感じました。
<ヒューマニティをつなぐ示唆>
しかし、カンファレンス全体を通して、そこへのヒントはあったのかもしれません。
たとえば、基調講演を行ったオリンピック・アスリートのSimone Biles氏の語りからも、私たちは多くの学びを噛み締めることができました。
彼女が語ったのは、パリ五輪での成功体験ではなく、その前の東京五輪という葛藤と苦しみのなかで「棄権」という選択をした出来事でした。
「体と心が一致していなければ、立つべきではない」。
自らの内なる違和感に耳を傾け、立ち止まり、声を上げ、助けを求める——その行動には、単なる勇気以上に、“人として生きる”という選択の重みが宿っていたようにも感じます。 そして、その声に呼応するように、彼女のまわりには「自分も声を上げられた」と語る仲間たちの輪が広がっていったといいます。
「あの時が、人生で最もレジリエントだった」。
自分の弱さと限界を認めつつ、穏やかに立ち上がるこのプロセスは、人間だからこそ可能な回復と再構築の物語だったのかもしれません。
また、人間性の複雑さと学びの関係を深く掘り下げたのが、3日目に基調講演を行ったAmy Edmondson氏の講演でした。
彼女は「失敗には種類がある」と述べ、基本的失敗・複雑な失敗・賢い失敗という3つの分類を示しました。
そのうえで、「賢い失敗」こそが、未知への挑戦や組織の進化の源泉となるとし、重要なのは「失敗をなくすこと」ではなく、「どんな失敗を許容し、どう学びに変えるか」という視点だと語ります。
ただし、それを可能にするには、心理的安全性のある“学習ゾーン”を意識的につくる必要があるとEdmondson氏は続けます。
失敗が恐れや痛みを伴う現実において、「声をあげる」「異論を述べる」「自分の弱さを見せる」ことが許される空間こそが、学習と変化の起点になる——その考え方は、Biles氏の語ったレジリエンスのプロセスとどこか深く響き合っていたように思います。
AIが進化し、ミスを繰り返しながら最適解に近づくプロセスを高速で実行できる時代。
けれど、人間の学びとは、痛みをともないながら誰かとつながり、支えられ、葛藤のなかで生まれていくものなのかもしれません。 その違いを丁寧に見つめることが、AIと共に歩むこれからの時代に、私たちが大切にすべき視座であるようにも思います。
<語られなかった声と語られた声>
では、このATDの中で、私たちは十分に声をあげられていたでしょうか。
今年のATDでは、昨年まで数多く行われていたDE&Iに関するセッションが表立ってはほとんど姿を消していたことに驚きましたが、現地で参加者たちと交流しても驚くほど政治的な話やその影響についての語りは出てこなかったように思います。
意外にみな気にされていないのかな、と思ったところもありましたが、一方で、インクルージョンを扱ったあるセッションでは、ファシリテーター自身が、組織のリーダーの交代により、就いていたD&I担当のポジションをいきなり奪われ、職や居場所を失った体験を「D&Iは危機に瀕している」といった少し過激な表現をもとに語られていたこともあり、実際には声に出せていない声もたくさんあるのかもしれません。
しかし、その一方で、「Cross-Cultural Consulting and Facilitation: Stories From Abroad」というセッションの中では、母国とは異なる文化的環境でコンサルティングやファシリテーションを行う5名のスピーカーから、「D&Iの取り組みについては色々言われているが、私たちの異文化体験を話すことには価値がある」と体験を語り始めたとのことでした。DとEとIという枠組みから解放され、自らの体験を語ることは、こうした分断を埋めるヒントになるのかもしれません。
実際に今年は、Community Conversationという対話型のセッションが数多く行われていましたが、その中の1つ、「Burnout to Balance」のセッションでは、用意された会場に収まりきらないほどの参加者が集い、それぞれが自身の経験や痛みに向き合いながら、問いに導かれて対話を重ねていました。
最終日に行われた「Foster a Speak Up Culture Through Vocal Empowerment Training」では、声にならない声を上げるためのトレーニング方法が紹介されていました。多くの組織では、スピークアップを奨励しているものの、実際には人々は「報復への恐れ」「無力感」「単なる不快感」によって沈黙している中で、“内なる声”を可視化し、小さな違和感を言語化し、少しずつスピークアップに慣れていくというプロセスに勇気づけられました。 声を上げることは、自らの存在を世界と結び直すこと。スピークアップとは、AIでは代替できない、人間だけができる“関係をつくる力”の現れなのかもしれません。
<終わりに>
AIの可能性とヒューマニティの現実の間で揺れ動いた4日間。どんなに技術が進んでも、人の声が届かない場所では、本当の学びは生まれない。だからこそ、声にならない思いを拾い合い、語り合い、問い続ける場こそが、本当の意味でのエンパワーメントであり、AI時代における“Collective Insights”の源泉なのかもしれません。
この揺らぎのなかで、人と組織の価値をどう紡ぎ直していけるのか、問い続けていきたいと思います。
<ATD25レポート>
Chapter1:AIとヒューマニティ、その間で見つめたもの (取締役主任研究員 川口大輔)
Chapter2:心理的安全性を培い、学びに伴う“恐れ”に向き合う (研究員 市村絵里)
Chapter3:意味を紡ぎ続ける学び 〜AI時代の Collective Insights, Lifelong Learning〜 (研究員 萩森聖香)