組織開発

誰の組織?-公共哲学における集合的意思決定

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アジャイルODx研究会メンバー
筑波大学人文社会系准教授 五十嵐 沙千子

今回は、「公共哲学では、集合的意思決定ってどんなふうに考えるのか?」について書いてみようと思います。アーレント(Hannah Arendt)やハーバーマス(Jürgen Habermas)といった哲学者が出てきますけれど、なるべく彼らにも普通の⾔葉で語ってもらおう、そしてわたしも皆さんとお話ししているように書いていこうと思います。「哲学? 難しいんでしょ」と嫌わずに、わたしのおしゃべりに少しおつきあいくださると嬉しいです。
さて。

1. ウチの会社

ウチの会社とか、ウチの学校とか、よく⾔いますが、
ウチは「内」なわけで、もちろん「ウチ」に対しては「外」があるわけです。「外国」とか「外⼈」とかがそうですね。「ウチら」に対して「あいつら」があり、「われわれ」に対して「彼ら」がある。「われわれ」は仲間であって「彼ら」は仲間ではない。「友」がいるから「敵」がいるわけで、友/敵、われわれ/彼らの間には厳然とした壁があります。「他社に負けるな」も「クラス対抗」も「⾃社では」も「⾼校対抗のインターハイ」も「ワールドカップ」も「オリンピック」も、「戦争」だって「われわれ」と「彼ら」という境界線があるからこそできる。そして、いつでも「われわれ」は「⾃分」たちのために⼀丸となって頑張るのです。オリンピックでも「⽇の丸」が揚がり「⽇本選⼿」がメダルを取ればニュースになる。「感動をありがとう!」と、みんな「我がこと」のように喜び、「敵」に負けると「我がこと」のように悔しがる。そんなの当たり前、と思う⼈も多いと思います。
でも、「われわれ」と「彼ら」って本当にそんなにきっちり分けられるんでしょうか?
「われわれ」は同質で、「彼ら」は異質だと、本当に⾔えるんでしょうか? アガンベン(Giorgio Agamben)という哲学者がいて、その⼈はこう⾔っています。
イジメがあるのは、「われわれ」を「作る」ためである。
ついでにこう⾔ってもいいかもしれませんね。「オリンピック」があるのも「われわれ」を「作る」ためである、と。

ちょっと考えればわかるように「われわれ」は決して同質な⼀枚岩ではありません。クラスや会社の中にもいろんな⼈がいるように、「われわれ」といっても実際には「われわれ」の中には明るい⼈もいれば暗い⼈もいる。マトモな⼈もいればヘンな⼈もいる。ノリの良い⼈・悪い⼈、真⾯⽬な⼈・だらしない⼈、中⼼的な⼈もいれば隅っこの⼈もいる。誰もがちょっとずつ違っているのですが、それを「いろんな⼈がいるという単なる違い」ではなくて「カースト」に仕⽴てるのが、わたしたちの社会のごく普通のやり⽅です。たとえば「明るい/暗い」「デキる/デキない」「主体的/指⽰待ち」「時間を守る/時間にルーズ」。⼈を語る⾔葉はこんなふうに価値をまとっていて、決して「フラットな違い」「みんな違ってみんな良い」では済まされない。「みんな違ってみんな良い」どころか、「どんな⼈か」によってその組織でのその⼈の地位=カーストが決まってしまうのが現実です。だからこそ、わたしたちは誰でもその社会・組織にとって「望ましい」存在になろうとするのです。その社会で認められたい。その社会の価値を⾝につけて社会・組織の「中⼼」に⼀歩でも近づきたい。「望ましくない」価値=「⽋点」は、⾃分の中から無くしたい(少なくとも無いフリをしたい)。そう思ってしまうのです。
これは誰もがやっていることではないでしょうか? 社会や組織で⽣きていくというのは、社会や組織に適合する⾃分になるということです。その社会・組織の「中⼼」に⾏きたければ-あるいは周縁に追いやられたくなければ-⾃分で⾃分をその社会・組織の「あるべき⼈材」「求められるあり⽅」という「型」にはめ込まなければなりません。社会・組織の中では、「本当は無限に異なるわたしたち」は、「無限に異なるわたしたち」のままではいられないのです。居場所を失う不安から、わたしたちは⾃分らしい⾃分であることを⾃分に禁じ、⾃分をいつも社会のオーダーに合わせてしまう。これを「⾃⼰疎外」(⾃分で⾃分を押し殺すこと)と⾔います。
この⾃⼰疎外のシステムというのは、社会・組織を維持していくためには⾮常に「便利」なシステムです。だって無限に異なる無数のバラバラな⼈々を「⼀つ」にまとめるのは⼤変なこと。でも、わたしたちの持つ不安に働きかけさえすれば、「外から」いちいち「こうしろ」「こうあれ」と命じられたり、チェックされ管理されなくても、「浮かないように」「⿊い⽺にならないように」とみんなが⾃分で⾃分を⾒張り、⾃分を組織に同⼀化させていく。誰もが持っている不安を使うことは、組織の維持にとって⾮常に都合がいいのです。
イジメはその延⻑線上にあります。

社会・組織にとって「異質な他者」にならないように⾃分⾃分を⾒張っている⼈間は、「異質さ」に敏感です。「異質な他者」であっては「いけない」、「異質な他者」は社会・組織にはいられない。そう思って⾃分の中の「異質な他者」を徹底的に排除してきた⼈間は、「異質な他者」である他者が「異質な他者」のままであることを「⾒逃す」ことができない。⾃分の異質さを許さない⼈間がどうして「異質な他者」を許せるでしょう?
こうして、「異質さ」に対するイジメは、それがどんな異質さであっても起きてしまうのです。しかもアガンベンは⾔うのです。そのイジメは、「異質な他者」を集団の「外に追い出す」ものではないのだ、と。イジメとは、あくまで集団の「中」で、異質な者をカーストの周縁に追いやり痛めつけるものである、と。なぜか? 「⾒せしめ」には効果があるからです。
たとえば、宿題を忘れた⽣徒を⿊板の前に⽴たせる教師がいたとします。その光景を⾒た他の⽣徒たちは、⽴たされている⽣徒の姿に⾃分を重ねて⾒てしまう。もし宿題を忘れたら⾃分もああなるのだ、と。それが怖いからみんな嫌でも宿題に向かいます。あるいは、頑張った⽣徒たちは⽴たされている⽣徒を⾒て、こう思うかもしれません。⽴たされるのは当然だ、⾃分は無理をしたのにあいつがサボって許されるのはおかしい、と。こうして全員が宿題をするようになる。異質なものに対するイジメは、まさに集団を同質化する強⼒な装置なのです。
イジメだけではありません。集団の同質性を維持するためにはプラスの動機付けも使われます。評価、そして昇進です。集団の価値に従い、その価値を実現する⼈には⾼い評価が与えられる、カーストの中⼼に近づける、権⼒も与えられる、というわけです。
こうして集団はその集団の「同質性」を作り上げます。排除と評価、アメとムチという強い動機付けによって、本来「無限に異なる他者」であるわたしたちは、⾃分の中にある・・・・・・・「異質さ=他者性」を⾃分で捨てて「⼀つの集団のメンバー」に変わっていくわけです。
「⼤⼈」というのは、こうした⾃⼰疎外を⾃分でやり続けることができる⼈間のことです。つまり⼤⼈とは、他律を内⾯化できた者、もはや「他⼈からいちいち」⾔われなくても「⾃分でちゃんと」<�従う>ことができる者のことをいうのです。
もちろん、こうした「他律の内⾯化」が決して「⾃律」ではないことは注意しなければなりません。これは単なる⾃主的服従でしかない。でも、「⾃律する」というのは集団の中では危険なことなのです。だって、⾃律するということは、他からのオーダーに<�従わない>こと、「異質」であること、すなわち「他者」として集団から排除される可能性と裏表だからです。

2. 「家」にいるということ

こういう⾃⼰疎外システム(⾃⼰封殺システム)の場を「家」と呼んだのは、ハンナ・アーレントです。
「家」には家⻑がいる。その家⻑に、⼥と⼦供、それから奴隷は黙って従います。追い出されたら⽣きていけないからです。だから彼らは、妻として⼦として奴隷として求められるあり⽅に⾃分をあてはめ、分担された家事労働をこなし、⾃分を殺して⽣きるしかなかった。それはあまりにも当たり前すぎて、⼥⼦供や奴隷には、もはや⾃分を殺しているという感覚さえなかったのかもしれません。今のわたしたちのように。
でも成⼈の男性には「別の道」もあった、とアーレントは⾔います。⼀つは職⼈の道です。たとえ財産がなくても、腕を磨いて⾃分にしか作れないものを作り、そのことによって⾃分を表現し、「⾃⽴」して⽣きる職⼈の道が成⼈の男性にはあった。そして、もう⼀つ、成⼈の男性には道があったのです。「⾃律」した⼈間として⽣きていく道です。
アーレントが例にとって描いたのは古代ギリシャのアテネでしたが、当時のアテネには広場がありました。今もヨーロッパの街の中⼼には、教会があり市場が開かれる広場があるのですが、その広場に家⻑たちは集まったのだそうです。家⻑たち、つまり、家を持ち奴隷を持つ、⾃分が⽣きていくために他⼈の顔⾊をうかがう必要のない⾃⽴した「市⺠」である家⻑たちは、対等な者同⼠として、すべての家⻑に開かれた広場に集い、さまざまなことについて、⾃分たちのことについて、そしてアテネの政治について話し合ったのだといいます。そこで彼らは⾃分の思うことを⾃分の思う通りに完全にオープンに発⾔し、⾃分たちで⾃分たちの街の規則(律)を決めていきました。誰かに従うのではなく、⾃分にのみ従う。彼らは⾃分たちが納得できるまで話し合ったのです。
これこそが公共の空間なのだ、とアーレントは⾔います。すなわち公共性とはすべての市⺠に開かれているということ。ドイツ語で「公共性」は、まさに“Öffentlichkeit“(öffen=open であること)というのです。そこは誰にでもすべての市⺠に開かれ、すべての市⺠たちが⾃分のままでいられ、⾃由に⾃分の意⾒をオープンにし、対等な相⼿と思う存分対話を重ねることができる。ところがこの広場、「誰にでも開かれている」はずのこの広場は、⼥⼦供や奴隷、そして職⼈には閉ざされていました。広場で対話をし、対等な市⺠仲間として⾃分たちの世界を⾃分たちで構成していく⺠主主義の権利は、⼥⼦供・奴隷には許されていなかったのです。
それをすべての⼈間に開放していくこと。それこそ世界の歴史だったのだ。アーレントはそう⾔います。
あらゆるものと対等な市⺠であること。⾃分が⾃分の主⼈である権利を取り戻していくこと。そして⾃分の思いを-それがどんなものであったとしても-オープンにすること。誰にでもすべての⼈間に、誰のものでもないこの広場を開放すること。世界を、あらゆる者の声が響くこの公共の広場にしていくこと。これこそ、アーレントのみならずカントをはじめとする哲学者たちを突き動かしてきた実践的な欲望なのです。
こう考えると、この公共性―世界を誰にでも開かれた広場にしていくこと―が、ひとつには「⼈権」の問題として語られてきたことは⾃明でしょう。奴隷であっていい⼈間なんて、誰もいないのですから。
では、今の世界には奴隷はいないのでしょうか?
⾃分が⾃分の主⼈であることは今でも難しい。わたしたちが声を出すことは今も難しい。それは、わたしたちが「共同体」に住んでいるからなのです。
わたしたちは誰でもどこかの国、なにかの⽂化、それぞれの階層の中に⽣まれ落ちてきます。
⽇本には⽇本の⽂化があり、アメリカにはアメリカの⽂化がある。⽇本の中を⾒てみても、岩⼿の⽂化と東京の⽂化は違うでしょう。わたしたちはみんな、その⽂化の「中」で、その⽂化の価値を教えられ、それを⾝につけて成⻑していきます。
⽇本の中で⽣まれ育った⼈間とアメリカで育った⼈間とでは、背負うものがかなり違う。どちらが良いということではなく、それぞれ背負うものはあるのだと思います。⽇本では⽇本ナイズされないと、そしてアメリカではアメリカナイズされないと⽣きていけない。わたしたちのアイデンティティとはまさに、⾃分が⽣まれ育った共同体で⾝につけた⽂化的同⼀性(identity)なのです。そこにはやはり何らかの-強い弱いの違いはあったとしても-⾃⼰疎外がある。
こうしてわたしたちはいつでも、⾃分の共同体の価値を⾝につけて⽣きるか(これは⾃分で⾃分の声を殺すことを意味します)、あるいはその共同体の中のカースト最下段の者として⽣きるか(これは誰にも声を聞いてもらえないことを意味します)、いずれかの選択を迫られているのです。共同体の中で⽣きようとする限り、この選択は避けられない。でも、⾃分の共同体に反旗を翻して共同体から出ていくのは、恐ろしいこと、そして⾟いことなのです。
こうして多くの⼈は、⾃分の共同体という「家」の中で⾃分を殺し他者を殺して⽣きていくことになってしまう。
わたしたちはどうすればいいのでしょうか。
ハーバーマスは⾔うのです。
共同体(「家」)があるからこそ、⼈は育つことができる。⽂化を学び⾔葉ときまりを⾝につけ、社会の⼀員として成⻑することができる。でも、もし誰かがその共同体の⼀員であることが苦しくなったら、そのとき、わたしたちはその共同体が維持してきた価値を疑ってよいのだ、と。⼈が⾃分の共同体の中で疎外されるとき、疎外された者の⼈権は守られなければならないのだ、と。そのとき、「家」は「広場」で問われなければならないのです。「家」を守るのではない。守られるべきなのは⼈権なのです。すべての者の声が聞かれなければならないのです。「家」は絶えず公共の広場に開かれなければならないのだ。ハーバーマスはそう⾔うのです。すなわち共同体のさまざまな価値に対しては、「それが共同体の価値だから」という理由で正当化されることがあってはならない。その価値は、その共同体を超えるすべての者たちによって問題にされ、本当に受け⼊れられるべきものであるのか、その妥当性が検討されなければならない。それに関わる当事者である⼈たちすべてが⼼から納得できなければ、どんな価値も正当化されたとはいえない。そして、まだ正当化されていない価値を⼈に押し付けることは誰にも許されない。
これがハーバーマスの⽴場です。

でも、家を広場で問うことは家を壊してしまうことになるのではないか。譲れない伝統的価値もあるのではないか。まさに⾃分の共同体の伝統的価値を⾃分⾃⾝のアイデンティティとして⾃分の尊厳の根底に置いているわたしたちにとって-たとえそれが⼈権に反することだとしても-⾃⽂化の中⼼的な価値を廃棄することは困難です。
それでも、まさにその伝統によって苦しんでいる⼈がいたとき、その⼈を⾒殺しにすることは正当化できるのでしょうか。

世界のさまざまな共同体の中で抑圧されている⼈がいることを知りながら、わたしたちはそれが他(ヨソ)の共同体のことだからという理由で無視することができるのでしょうか。
そうした共同体で出来上がっている世界を、わたしたちは⾃分の世界として・・・・・・・・受け⼊れることができるのでしょうか。

これはとても難しい問題です。
 わたしたちにとって共同体は家であり、また故郷でもあります。善悪を超えて共同体はわたしたちにとって⾃分のアイデンティティの基盤でもある。それを無下に全否定すべきだということをハーバーマスは⾔っているのではありません。
ただ、すべてのわたしたちは、共同体の中で誰もが⾃⼰疎外に陥る可能性があるという事実を「知って」おくべきではないのか。そして、もし、誰かが⾟い状況に陥ったとき、誰であれその⼈が声を挙げていいのだということを、そして挙げられた声が広場にいる全員によって真摯に聞かれ、全員の問題として共有され、全員で問題にされていいのだということを保証しなければならないのではないのか。そう彼は⾔うのです。

3. 「広場」にいるということ

こんなふうにわたしたちは、現実の世界の中で絶えず⽭盾を抱えて⽣きています。
「家」はいつでもわたしたちを⽀え、わたしの所属を与えてくれる居場所です。そこに所属しているという安⼼感は、わたしたち全員にとってかけがえがない。ですが、「家」がわたしたちに同質性を求め、その中でわたしたちがお互いに⾒張り合い、誰もがありのままの⾃分⾃⾝でいられなくなってしまうこと。そして何よりも、⾃集団の「われわれ」と外部集団の「彼ら」の線引きをして、本当は⼀続きにつながっている世界全体の問題をもはや「われわれの問題」だと感じられなくなってしまうこと。これはやはり、どうしても看過することができない問題です。こうした⼈権の問題に加えて、わたしたちが直⾯している近年の激しい社会変動は、「家」の同質性を維持していくことの正当性をますます疑わせています。
たとえば、世界はすでにVUCA、あるは第四次産業⾰命といった先の⾒えない時代に突⼊していると⾔われます。厳しい気候変動や激しさを増す⺠族対⽴も相まって、社会や国家も、企業だってこれからいったいどう進んでいけばよいのか、その⾒通しがまったく持てないのが今という時代なのです。この時代を航⾏する針路を指し⽰す既存の正解はありません。正解がないということは、正解を知っている者もまたいないということ。⾃分の共同体に従っていれば⽣き延びられる時代ではもはやないのです。いや、むしろ共同体の「同質性」「これまで通⽤していた既存の知」に依存することが破滅に直結するのが「現代」という時代なのだと⾔わければならないでしょう。いったいわたしたちはどうすればいいのでしょうか?
やっぱり答えを探していくしかないのです。「正解」ではなくても、少なくとも「より良い」答えを探していくしかないのです。みんなで知恵を出し合って、これまでの正解を「より良い」ものに書き換え続けていかなければならないのです。
これまでの正解を絶えず書き換え続けていく。でも、どうやって?
そのための⽅法論を哲学はひとつ持っています。
「弁証法」という⼿法です。

弁証法というのは、「正しさ」をひっくり返すため・・の理論です。
弁証法を⼀⾔で⾔うと「<�正反合>という運動システム」で、真の成⻑は、「正」→「反」→「合」の運動の中でしか・・・⽣まれない、という考えです。

「正」というのはこれまで正しかったこと。既存の正解、共同体の中⼼的な規範や価値、常識です。どんな共同体にもこうした規範はあるし、この「正しい中⼼」にわたしたちは同⼀化・同質化し、その価値を⾝につけて「⼤⼈」になり、異論や異和を排除して⾃分たちの地盤を安定させて⽣きてきた。でも、それでは時代の変化についていくことはもうできません。
この既存の「正」を動かすものこそ、これまでわたしたちが排除してきた異和なのです。これまで「家」の中で押し殺されてきた「対⽴」「異和」「他者」、すなわち「正」に対する「反」こそが「正」を流動化させ、わたしたちを救うのです。肩をいからせて威張る既存の「正」に対して、「反」はまるで裸の王様に向き合う⼦供のように「なぜ?」と疑問を挙げ、異論を⽴てます。とは⾔っても、これは「反」が「正」を駆逐するということではありません。もしそうだとしたら、それは「反」が「正」の地位を横取りして「新しい正」になることでしかない。そうではないのです。「反」にとっては「既存の正」がやはり「反」の役⽬を果たすのです。そうやって、この⼆つの⽴場はお互いに、どちらが正しいのかを巡って、なぜ相⼿はそう主張するのか、そしてなぜ⾃分たちはこう主張するのかを巡って、その背景・その根拠を-共に-探っていくのです。どちらが正しいのかを本当に明らかにするためには、相⼿の根拠を共に理解し、⾃分の根拠を共に疑い、両者が納得する根拠、両者が納得する地点を探していかなければならない。それはこの両者にとって、それまでの⾃分の視野を切り開くこと、それまで依拠していた場所とは違う地点へと移⾏していくことに他なりません。そして、両者が⼼から納得する地点(「合」)が⾒つかったとき、共に歩いて⾏ったこの旅は終わるのです。ですが、きっとまた別の異和、別の疑問、別の対⽴、新しい「反」が、新しい「成⻑」が、新しい他者によってもたらされる。世界は広い。他者は無限にいるのです。
このようにして旅は続いていきます。成⻑は永遠に続いていくのです。しかも⾃然に・・・
ただ異和と他者に⽿を開く、ということ、それを封殺せずただ向き合ってただ対話を続けていくということが、この⾃然な成⻑を必然的に・・・もたらすのです。誰の声も排除しないこと、すべての他者たちにわたしたちの場所を開くことが、わたしたちの成⻑を起こすのです。アーレントが⾔ったように、広場を公共の-誰のものでもない/誰も排除しない-ものにすること、「家」を広場にすることが、わたしたちがVUCAの世界でより豊かに軽やかに⽣き延びていくことを、初めて可能にするのです。

4. 集合的意思決定とは

これは実は⾮常に単純なことなのだ、と気がついた⽅もいらっしゃるのではないでしょうか? ごく簡単に⾔えば、これは、1つの頭で考えるより10の頭で考えるほうが良い、ということです。1つのエンジンで考えるより、10のエンジンで進むほうが良い。そのほうが遠くまで⾏けることは⾃明です。10の頭を1つの中⼼に同⼀化(これを「中⼼化」と⾔います)するのではなく、いろんな発想を10⼈みんなで吟味して「その都度」「より良い」アイデアを選び、それを練り上げれば良いのです。誰の頭も疎外せず、すべての頭を全体への貢献に⽣かせば良い。つまりみんなで考えれば良いということ。図式としては⾮常に簡単なことです。
でも、わたしたちはそうしてこなかった。
それでは集団的意思決定ができない・・・・・・・・・・・・・・・・、と信じてきたからなのです。

「家」なら集団的意思決定は可能です。家⻑が決定すればよいのですから。同質な者たちの共同体なら、集団的意思決定は簡単です。
でももし、「家」が広場に開かれてしまったら、すべての者に広場が開かれてしまったら、「異質な他者」たちに広場が開かれてしまったら、そこでは集合的意思決定はどうなるのでしょうか? お互いバラバラな異質な者たち全員の意思決定などできるのでしょうか?
できるのだ、とハーバーマスは⾔うのです。そして、それこそが本当の集合的・・・意思決定なのだ、と。
 だってわたしたちは本来・・、バラバラなのです。だからわたしたちはバラバラであっていい。わたしたちはバラバラであることを、「無限に異なる他者たち」であることを、すなわちわたしがわたし⾃⾝であることを、取り戻していいのです。わたしはわたしであっていい。
 そこから、「わたし」と、わたしとは異なる「あなた」が出会い、⾃分の顔を取り戻した複数の・・・者たちとして初めて「集合」し、何が正しく、何が間違っているのかを「⼆⼈」で話していくのです。わたしたちは、「わたしたち」としてではなく、「わたし」と、わたしとは異なる・・・・・・・・「あなた」として、初めて「⼆⼈」であることができる。息を殺し⾃分を殺して、集団の中⼼に同⼀化している同質の者たちは出会うことはできません。同質を強いられた空間の中には誰もいない・・・・・のですから。わたしたちは、無限に異なる他者たちとして、初めて・・・出会うことができるのです。
集合的・・・意思決定は、ここから⽣まれていきます。
だから集合的意思決定の道は遠い。
でも、わたしたちはこの広場にいなければならないのです。

この広場で、わたしとあなたは出会うのです。出会って対話を始めていくのです。
対話をするうちにわたしの思いは変わる。最初は正しいと信じていたこと、昨⽇まで正しいと信じていたことが、今⽇の異質な他者との対話の中でどんどん変わっていってしまう。それは取りも直さず、これまでの⾃分の考えが間違っていたということ。
それでいいのです。昨⽇まで正しいと信じていたこと、今⽇はまだ正しいと信じていることが、違う他者との出会いによって開かれていくのは⾃然なこと。昨⽇のわたしは間違っていていいのです。明⽇は知らないわたしになっていいのです。
それを哲学では「可謬論」と呼びます。「真理」は変わる。共同体の「中」でわたしの信じてきた「真理」は、広場で変わっていくのです。異質な他者を排除することで固定化され維持されてきた共同体の「真理」は、広場の対話の中で、わたしとあなたの対話の中で新しく問いに付され、崩され、その中からもっと強い、もっと明るい「真理」を生んでいくのです。わたしたちは間違いながら進んでいくのだということ、真理に近づいていく道は誤謬を踏み越えていく道以外にはないのだという可謬論の前提は、わたしたちが本当の・・・真理を探していこうと決意する限り⼿放すことのできない約束です。対話の中で「真理」は変わる。対話の中で、わたしは変わっていくのです。わたしの⽬の前のこの他者と⼀緒に、わたしは変わっていくのです。
そしてそれは取りも直さず、わたしがわたしの友を発⾒していく過程でもあります。わたしと対⽴する異質なこの他者は、わたしを切り開き、わたしと共にまだ⾒ぬ明⽇に歩いていく、わたしの真の友なのです。
この広い世界のいろんな⽚隅で、わたしたちはそれぞれの共同体、それぞれの昨⽇を背負って出会います。そこでその都度、わたしたちは切り開かれ、「より良い」答えを探していく。それはわたしたちにとって、わたしとあなたが共に、これまで⾃分たちが信じてきた「正解」から解き放たれていくプロセスです。
わたしはこうして「家」から出ていくのです。家から出てわたしは、広場であなたと⼀緒に答えを探す旅に出るのです。
それは、わたしたちがまさに⾃分⾃⾝を取り戻していく旅でもあります。
本当にわたし⾃⾝であるわたしたちが、本当に⼼から納得できること。本当に⼼から合意できること。その「こと」⾃体は⾒つからないかもしれません。でもそれで良いのではないでしょうか? 昨⽇よりわたしたちは相⼿のことを、そして真のわたしを、そしてきっと「昨⽇よりもずっと良い答え」を⾒つけることができる。そして世界にいるすべての⼈がわたしの友であることを、そして世界がわたしの家であることを、初めてわたしは発⾒するのです。
わたしたちは、その都度の向き合うこの共同性=連帯の中で、新しいわたしたちの地図を探していきます。
こうして世界は、わたしたちの宝島になるのです。

著者のご紹介

筑波大学人文社会系准教授 五十嵐 沙千子

現代思想の研究者、哲学者。ハイデガー、ハーバーマス、シェリングなどの思想を中心として「自由」をテーマに研究する傍ら、2010年以来、広く市民を対象とした哲学カフェを主催している。筑波大学人文社会系准教授。「筑波大学人社チャンネル」「10minutes(オンデマンドTV)」などにも出演。主著は『この明るい場所 − ポストモダンにおける公共性の問題』。
愛称は「さっちゃん」。

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